最近は不思議なことがないなぁ、と思ったりしていた。まあ、私に起きる不思議なことは、「気のせい」や「思い込み」で済ませることができる程度のことではあるが…。でも、久々に「不思議なこと」があった。正月三が日の最後の日だ。

私は氏神さまが大好きだ。正確に言えば、その神社が好きだ。ただ、その神社は家から歩いて40分くらいなので、頻繁にお参りすることができていない。今年は、新年三が日のうちにお参りしたいと、神社に向かっていた。もうすぐ神社というところまで来たとき、家並みに違和感を感じた。視界の一角の家塀の向こうに広い空間がある。私は一瞬、そこの家が取り壊されて塀の向こうが空き地になったのかと、思った。でもその直後に、そうではない、そこのお宅の広い庭なのだとわかった。塀の向こうは空地ではなく、樹高の高い大きな木がいくつもあるのが塀の向こうに見えたのだ。そして、敷地の一角に美しい日本家屋が建っていた。その家屋も庭の木々も数十年前からそこにある様子だった。ただ、その光景は私の記憶と明らかに相違していた。

私の記憶の中のその家は、目の前の家と同様に木造の古い日本家屋ではあった。ただ、家の壁とその塀は近く、家の窓からは台所らしき様子がなんとなく伺えるくらいの近さであった。そのため、和風の門をくぐるとほんの2~3メートル先に玄関があったような覚えがある。なぜ、そんなに通りすがりの家の印象があるのかというと、私は昭和初期の木造日本家屋をみるのが好きだからである。通るたびに、いいなぁ、素敵だなぁと歩きながら魅入っていたからだ。

自分の記憶と異なる現実…。パラレルシフトという言葉を思い出した。パラレルシフトについては、色々よくわからないことがありつつも、そういうこともあるんだな、と他人事で受け止めていた。ただ、あくまで他人事としてである。いざ、自分の記憶と異なる現実がつきつけられても、ああ、パラレルシフトね、これがそうね、と暢気に受け止めることはできない。頭の中で点滅信号がちかちかする。こんな時は誰でもそうなのだろうか、私は考えることはせずに、気のせいとして通り過ぎることにした。

頭の中の点滅信号は、神社にきてすっかりおさまっていた。長い階段を上った先にある高台のご神域には複数の巨木がそびえたち、木々に囲まれて、神聖な雰囲気で静まりかえっていた。大抵は人と会うことはないが、その日もひとりで静寂を楽しむことができたことが純粋に嬉しかった。確か、神前で手をあわせ、昨年のお礼と「精進しますので、よろしくお見守りください。」というようなことを口にした気がする。

帰りの長く急な階段は手すりにつかまり、下をみながらゆっくりと降りていく。階段の下から、男性がのぼってこようとしているのが見えた。人と会うなんて珍しいなぁ、やはり新年だから皆お参りにくるんだなと思った。私より二つくらい年上らしき中年男性。急な階段なのに絶対に上を見ようとはしないが、階段のところで私と反対側によってくれたことからすると、階段を降りてくる私に気が付いているのだろう。その人物は不自然なくらいに私と反対側に顔をそむけてのぼってくる。人が苦手な人なのかもしれない…。迷ったが、すれ違う時に、「こんにちは」と声をかけた。狭い幅の階段ですれ違うのに何も言わないのも、なんだか気まずい。そう思ったからだ。案の定、その人物からは聞き取りにくいくらいの小さな声で「こんにちは」が返ってきた。その直後だ。返ってきた「こんにちは」よりも大きな声で「瞑想をしなさい。」と厳しい口調の声が聞こえたのだ。

えぇっ、私に言ったの? 私以外に誰もいないし、「瞑想をしなさい。」と確かに聞こえた。その人はそのまま階段をのぼって行った。えぇっ、あんなシャイな感じの人が「瞑想をしなさい。」っていきなり私に言ったの?どういうこと?あのすれ違った人物は果たしてそもそも本当にいたのだろうか?あらためて振り返って階段をのぼるその人を確認しようとしたが、下からは見えないところまで行ってしまったらしく確認はできなかった。 私の頭の中では、また、新たに信号が点滅していた。

結局、私は、「瞑想をしなさい。」との言葉は氏神さまからのアドバイスと考えることにした。いまさらいくら考えたところで、よくわからないのだから、神様から助言をいただくことができた、と楽しくて前向きになれる結論を選んだのだ。記憶と異なる日本家屋も、私の記憶の中の家と目の前にあった家を論理的に結びつけるとすれば、私の記憶にある部分は《減築により撤去された》と考えるしかない。ただ、古い家から別の古い家への変化をもたらした減築論は、どうしてもかなり苦しい論との印象が否めない。結局、私も周囲の人間も受け入れやすいのは、《気のせい》とすることである。

一方で、私の心に残ったのは、記憶の中のあの家屋のリアルなイメージだ。あれは《気のせい》なのだろうか。